ブログ278  祖母と電気の意外な繋がり

お久しぶりです

正月の1日からまた一ヶ月以上ブログ開けてしまいました。

沢山ネタはありまして、ブログとして書ききれないほどだったのですが、忙しくて時間に追われてました。

そういえば正月に父の実家に挨拶に行ったさいに、今年101歳になる祖母と話をしました

「テツヤは、最近は何処で仕事してるの?」

と聞かれたので

「東京の田町の方まで仕事行ってるよ」

と言うと祖母は目を輝かせて

「私も若い頃に田町駅日本電気で働いてたんだよ。」

「昭和1●年10月1日から8年間働いて、とても良い職場だったのよ、戦争が激しくなって玉川の工場に移動して、その後は疎開してお婆ちゃんの出身地の新潟県に帰るまで働いてたんだよ」

うちの家系、父親側も電気関係の仕事してたのか…と驚きました。

母方は曽祖父母の代から横浜の町の電気屋をしていて、白黒TVを地域一番で手に入れて、店に日々プロレス観戦とか地域の人が集まってたんだよ…力道山とか…なんて話はよく聞いて育ちました…

父親側の祖母も現在のNECで働いてたなんて…それも戦時中…歴史の教科書で読んだ世界の話です。

母方の叔父さん、小さい頃の私に色んな遊びや昔の話をしてくれた叔父さんも、生涯電気屋で「関電工で日々電柱を建ててたんだよ」、なんて話をしてくれました。戦争後の復興に欠かせないその時代の仕事されてたんだな。叔父さんの話で戦争時の学校教育の話を聞かせてくれて、九州の出身で戦時中に幼かった叔父は、関東に住んでたのですが疎開で熊本に帰り、「学校の校庭が蟻地獄みたいに内側に掘られていたんだよ。子供の足腰を鍛える為で、ある程度の走力が無いと脱出できないから、毎日走って身体鍛えさせられた」とか

「台湾や朝鮮も日本の一部だったから、疎開先に向こうの人もいて友達になった、戦争終って各々の地元へ帰っていって、戦後も文通で連絡とったり仲良い友達と遊び行来したりして家族の皆を連れて台湾旅行したり」なんて話も歴史を感じました。

 

長々となりましたが、私の家系と電気の繋がりと戦争前後の話でした…

 

今日の気付いた技術的な話をしようとブログを書き始めましたが、長話になってしまったので次回にします。

 

今年も良いお年をお過ごし下さい